金色の光

今から5年前、まだ日本に住んでいた私は2011年夏の個展の後、周囲の期待とは裏腹に、今の自分に希望が見いだせなくなりました。私自身がその環境に、一切の光を感じられなくなってしまったのです。
差し当たって、昔からの願いでどうしても学びたかった「絵で本を作ること」という目標に定めた途端、チェコという国を発見し、やりたかったことを全てできる最高の環境を見つけ、願い叶って留学することができました。
その時ずっと感じていたのは、やっと未来に希望の光が見つかった、という感覚でした。
感謝が溢れました。

留学当初、私はイラストレーターとしてはズブの素人で、みんなができることを、何一つできませんでした。
今までのやり方は全て捨てると決意しました。
そして、己の中で「芸術レベル」を一度下げて「デザインレベル」を上げることに専念
し、本を3冊完成させ、それからこれからやりたいストーリーも沢山見つけて、卒業しました。

今、2016年11月。
自らの未来への失望から約5年。
私は確かに欲しかったものを手に入れました。
そして人生は私を、芸術家の道へ呼び戻しました。

私はとても戸惑い、悩みました。
日本を出た理由の1つは間違いなく、「私は日本では芸術家として生きていけない」という、ある種の夢の挫折、断念だったからです。その思いはいつのまにか、「私はアーティストに戻ってはいけない」という思い込みにも変化していたのかもしれません。
でも、気づいたら今、私は外国にいて、住みたかった街にいて、手に入れる必要があった技術、心の持ち方、そしてそれ以上のもの全てを手にしていました。―「全て」といっていいと思います。私が日本にいたら到底想像もできなかったもの、全てです。

私を不当に扱う人に何度も出会い、その度に私は、自分にはもっと価値があると認めざるを得ませんでした。
最後の難関を断った今この瞬間、目の前に突然広大な野原が姿を現しました。
そこは金色の光で満たされていました。



私は気が付きました。
今やりたいことは、制作すること。
自分の制作をすること。
これがこの地でできたら、たとえもうここに住むことができなくなったとしても悔いはないと思えるだけのことがそれであり、今、その機会が与えられたということ。
それに関して悩む必要がないことは、不当で全くインスピレーションの湧かない大量の仕事を要求をしてきた人からの多大なストレスのおかげで、完全に理解できています。―神さまはそういう用意の仕方もするのです!

この夏に沢山の素晴らしい出会いがあり、私は既にいくつかのプロジェクトにむけて動き出しています。
再び、そしてより新しい形で、音楽家とのコラボレーションであるライブドローイングパフォーマンスを、少なくとも2つ、計画しています。
チェコでの書道家とカリグラファーとの交流展も企画しています。
何より、今どうしても個人的に制作したいテーマがあります。そのテーマで、なんとか個展をしようと思っています。もちろん、プラハで。
死んでも悔いがないと思えることにしか、私は動けないようなのです。
死なばもろとも。
やるしかありません。
今、とても気持ちが晴れ晴れとし、スッキリしています。
死んでいた全ての細部が、蘇ったような気分です。


30代はどうやら、「自分とは何か」を探し、表現する過程にあったようです。
制作した本のうち2冊が自分の人生や体験を紹介する本になったのも、偶然ではないようです。
自分のルーツを探る、名前に意味があること、自分のストーリーとは?という流れ。
外国に来て外国人として暮らすことで、私とは何かというテーマは自分が望んでいた大きさの領域へと一気に拡大し、そして拡大することで私自身の仕事である「核心部を見つけること」に繋がったと思います。
今、作り始めたのは、このテーマです。

http://akacoa.tumblr.com/post/152593755823


『墨と雪』という言葉。それに突然出会い、いてもたってもいられなくなって、制作が始まりました。
黒は、私を導き続けてきました。私は常に白地に置かれる黒を愛し、またその表現が最も得意であることも知っています。
画材を木炭にしても、黒のインクにしても、それは常に同じでした。
夏に書道家の溝口呑空氏と交流をさせていただき、チェコに帰ってからは硯に墨を摩って制作をしていた私はつい先月この言葉に出会った瞬間、私という意味を再び見出しました。
「ゆき子」という名の意味。
墨が導いてきた私の人生のことを。
また、『雪と墨』とも言うそうです。
お互いに反対の性質のもののことを指す慣用句だそうですが、私はつい先日まで知りませんでした。

それと、衝動的に描いたメモのようなこれを描いているとき、文字を書いていたら文字が自然に絵に変化していく瞬間を体験しました。
このような進行は初めてですが、書道の筆を持って作っているからだと思います。
今はしばらく、この感覚を追い求めていくつもりです。

今、私が存在する理由を表現しなくてはならない。
そう感じています。