Tebineri

人間。

金色になった傷口

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人生、落ち込んでしまうことも沢山ある。

私は去年、すごく楽しいことも、がんばったことも、悲しかったり悔しかったりして動揺したこともあった。
私は動揺したり、体調がよくないのに頑張ろうとすると、昔は自分の体調が壊れて動けなくなっていて、それが治ったら今は、ものが割れるようになった。
それで去年は大切な、絶対に失いたくない陶器が3つも割れてしまった。
ここにない、修復不可能な砕け方をしたガラスのカップを含めばもう少しある。

急須は、知り合いの方からいただいた大切なもので、絶対に失いたくなかったし、すごく綺麗に真っ二つに割れた。
カップは、母が日本から送ってくれたもので、これも絶対に失いたくなかった。それに、複数個に割れてはしまったけれど、粉々にもならずかなりパカっと割れた。

小さい頃に姉妹で使っていたカメさんのかわいいお皿も、棚に眠ってるの勿体無いな使うよ!とチェコに持って来た矢先、端っこだけなぜか割れてしまった。

というわけで、かねてからやってみたかった金継ぎセットを日本で購入し、持ち帰って、この冬やっと着手した。

 

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金継ぎはすごく時間がかかる。

まず、継いだ麦漆の「乾燥」には湿気が必要、つまり漆は湿気で硬化する。
そしてチェコのカラッカラに乾燥した冬。
うん。まずいね。
なので、段ボール箱に湿ったタオルやキッチンペーパーを置いて湿気を絶やさないようにしながら、丈夫に接着したければ一ヶ月ほど待たなくてはならない。長い。
2週間ぐらいでもいいそうだけど、丈夫になってほしいから待った。カレンダーに登録して待った。

そして、はみ出したとこを彫刻刀などで削り、平らにして、欠けた部分にパテにした錆漆をつけて埋め、それもさらに何日か乾燥させる。
それをまたきれいに削ったりやすったりしてから、弁柄漆というやつを面相筆でスーッと「傷口」に引いていって、それがええ具合に乾いても湿ってもいない時に金の粉を蒔くのだが、このタイミングが鬼すぎる。
急須は大切なもので妥協できなかったので、三度やり直した。。
今乾燥を待っている。

 

で、こんな感じに。f:id:jukiko08:20210427174424j:plain

かっちょいい。

かなり、いやすごく、かっちょいい。

 

何より、割れてバラバラになったりしたものがちゃんと戻ってきたという、驚き。
深く、修復不可能に割れたはずのものが、金色のかっちょいいラインを携えて生活の中に戻ってきてくれたという、すごさ。

これは、新感覚だった。

私は精神力は恐らくS級だけど、心は普通にガラスである。C級だ。
うつわを割ってしまうと、おいらの心のガラスも一緒に砕けていた。
つまりきっと、割れる時というのはそれを象徴してくれてるんだと思う。割れる時はいつもそういう時だから。

前までなら、割れたらもう、あーあ割れちゃった…と悲しみをこらえて、見ないようにして早めにゴミに捨てるぐらいしか方法がなかった。
でも、金継ぎセットを購入できるという素晴らしい世界になり、実際に自分の大切な器を継いでみて、それを普通にまた生活の中で使い始めたとき、新しい感覚が生まれた。

この器たちは、自らがパーンと割れて使い物にならなくなってしまった傷を、そのまま持ってる。
その形のまま。持ってる。それを成形したりすることなく、逆にそれ以上割るわけでもなく、ただ、割れてしまったという事実のまま、かっこいいライン持ちになって戻ってくる。そしてまた、生活の中で生きて活かされていく。

一度割れたらもう終わりだと思ってしまう人というのは、いる。完璧主義の人、自分のやり方しかわからない人。私はそのタイプ。
でもヨーロッパに来て少し変わったのは、「個人個人が違うのは当たり前なんだから、話し合いをして変えていけばいいし、合意できなければそれも仕方ないよ、個人だもの」という考え方。だから、喧嘩したり、悪いことしたりをどちらがしても、話し合いができれば解決ができる。これは、割れたと思った器がもっとカッコよくなって戻ってくる感覚に近かった。もうダメかな、と思った時、何度も折れずに済んだのは、こっちの友達のおかげだった。

そして今年、実際のうつわを自分の手で時間をかけて継ぎ、傷跡をそのまま持って美しく輝いている器を見て、もちろんそれを食洗機に放り込んだりしないし、金剥げてきてないかなーとチェックしたりともっとずっと注意を払うようになったり、時間がかかると分かった以上まず割らないことが大切!なので、ショックを受けたり傷ついている時に「私は割らないわよ!!!」と宣言すると、割れない、ということが分かった。(欠けてはしまったが…。)こういう時はちなみに料理中の不意の切り傷も作りやすいので(精神的には分かりやすい自傷の一つらしい)、切らないわよ!!!!と宣言するとこれも、切らない。

つまり、落ち込んだ時、ショックで辛い時に、無理に普段通り動かないようにするというチャンネルが、長年の苦節を経てどうやら、私に、なんとか、実装されたらしい。。

にっぶ…。

にっぶいねん…本当に…。

はー……と落ち込んでしまう今ではあるが、
それでも、継いだ器がカッコよく
今日も堂々としているから、
これに恥じないように、自分をちゃんとケアしながら、生きていきたいと思う。

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器を継ぐのに、やり直しなんかもしてると2〜3ヶ月ぐらいかかってるわけなんだけど、心の傷も、ほんとはそのぐらいかかってるし、そのぐらいかけてあげるべきなんだろうな。と思うのでした。

2020年12月→2021年年始 一時帰国体験記

前提:
チェコ共和国・プラハ在住の日本人が、2020年12月初旬に日本へ一時帰国し、翌年1月4日にプラハに戻った際の記録です。
空港、旅客機内での旅、日本とヨーロッパ両方を体験しての感想などの記録です。あれこれまとめて書くので、長文です。

 

・事前準備

とにかくビビり倒しながら決断しました…。
年末年始を家族と過ごすために今年も帰省したく、しかしこの状況なので11月頭に丸一週間朝から晩まで悩み倒して、悩みすぎて死にかけましたが、家族が受け入れると言ってくれたことで決断に至りました。決断した後の方が調べるべき情報が狭まるため、いくぶん気は楽でした。それは「欠航になったら終わり」という賭けでもあるんで完全な安全ではないわけですが、決めなければ永遠に決まらない…というのと、コロナ理由の場合は全額返金されるだろうという見込みの元、さらに万が一を考えて日時変更とキャンセルが可能な便を予約することで解決しました。

まず、現時点でまともにヨーロッパから日本へ飛んでる便がKLM /Air Franceのみで、他にはドバイ経由も飛んでるようですが、プラハ→アムステルダム→日本、が一番短いし慣れているルートでもあるのでこれに決定し、KLMのサイトで予約をしました。
トランジット時間を長く確保すべきかをじっくり考えたのですが、どう考えても、もし自分が知ることもできなかった理由で足止めを食うとしたら空港での数時間の誤差でカバーできるとも思えなかったので、思い切って行きは乗り継ぎ時間が1時間10分のルートにしました。結果的には正解でした。というのは、そもそも飛ぶ便数が少ないのと、マスク関連のトラブルなどを予想してか、かなり搭乗時間が早めに設定されていて(いつもより15分ほど早かった気がします)、しかもこの状況下で飛行機に乗るような客というのは旅慣れてる人ぐらいなので全てがスムーズに進行し、全て揃った時点で離陸しちゃうので結果30分早く到着した、なんてことがざらだったからです。いつもなら遅延も考えないといけないんですが、今の状況でだけはその心配は一切不要でした。復路は、最短だと乗り継ぎ時間が50分だったので、さすがに不安で二番目に早い5時間弱の方にしておいたのですが、やはり早く到着したため、50分でも十分だったな…と思いました。まぁ、こんなことはとても予想できなかったので仕方ないです。

11月の予約前の時点で最悪の状況はあらかじめ全て予想し、その対策を手配し、大丈夫そうだと踏んだところで航空券の購入に至りました。
予想した最悪のシナリオは
・その時点では日本は低感染リスク国に指定されているので11月時点ではPCR検査なしで行き帰りが可能だが、12月の渡航時や1月の帰国時にはこれが変更になり、検査が必要になる可能性がある(日本側からのルールでそうなりました;1/8。)
・それがいつ変更になるかは全く読めない。もし往路(日本行き)前日に変更になったら、検査が間に合わない→渡航できない又は日時変更。または、いざ渡航したら条件が変わっていてトランジット国で日本人通れないよみたいになってたら(前例が一回出たらしくて、チェコ渡航の日本人には注意喚起が出ていました)どうにもならん…という恐れ
・帰路であれば、成田にPCR検査センターができたので一応帰国時必要になってもそこで可能だが、恐ろしい金額(自分のフライト予定だと時間外料金になるため、英文証明書つきで4万6500円…)

・最悪、日本から出られなくなったり、チェコへの入国ができなくなる。ただ冷静に考えて三週間でそこまで変わる可能性はかなり少ない。ヨーロッパはおおむね長期滞在許可証所持者は普通に入国できるので。が、飛行機の事情で欠航が出たりした場合、予定がズレることはあり得る
・もし万が一予定通りプラハに帰ってこれなくなった場合、飼ってるモルを信頼して預けておける人に預けなくてはならない

とにかく、毎日条件が変更になるような状況下ですし、ただでさえ空の旅というのは不安とストレスがあるものですから、それに加えてこのコロナというセンシティブな条件下、気にしなくてはならないことや、事前に考慮に入れて対策を打たないことの数があまりにも多すぎてもうだめだ渡航やめようと何度も何度も思い、家族にも親友にも弱音を吐きました。が、友人の協力により条件の確認方法がわかってきたので、心が落ち着いてきました。
具体的には、KLMでのトランジット国であり、EU入管口となるオランダの日本大使館のHPを毎日欠かさずチェックしました。チェコにおける日本関連の情報は大使館からメールが来るので、そちらでチェックできます。もちろん英語での公式HPの案内もチェックしていました。ここで「トランジットだけなら検査結果不要」を毎日確認しました。渡航前も帰国前もずっとチェックしていました。日本が安全国に指定されていることが、ほとんど奇跡としか思えないくらい今、世界中のほとんどの国の人がPCR検査陰性結果が必要なのです。奇跡としか呼べない状況だと、強く実感しました。

モルは、いつでも預かると言ってくださってた先に急に断られて途方にくれ、やっぱり一時帰国は無理なのかな…と折れかけたのですが、母に励まされてペットホテルを探したところ、最高のペットシッターさんを見つけることができ、心からホッとしました。言い方が悪くて申し訳ないんですが、チェコ人とは思えないほどの信頼感と責任感にあふれたプロフェッショナルな人で、いやもう…これ一番の奇跡起きたのでは…と。いやほんとすいませんね…でも事実なので…。。完全に奇跡の出会いでした。とにかく、これでやっと飛行機のチケットを確保に至りました。もうあとは、腹を決めて渡航するだけです。

・往路、無事渡航。

渡航日までに条件が変わらなかったのですが、それでもなんとなく半信半疑…みたいな気持ちで空港へ。大きなトランクを持っているのは道中私一人で、対策も十分にして決死の覚悟で来たにも関わらずなんだか悪いことをしているような気持ちになって、行き道のメトロやバスでちょっと泣きそうになりました。もちろん、誰も私を咎めたりしないとは思ってたのですが、そのぐらいプレッシャーを感じていたのです。

空港に到着すると、まったく見たことのない、ガラッガラの電光掲示板にさすがに衝撃を受けました。

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人の少なさは予想はしてましたが、電光掲示板を見たときの衝撃の方が大きかった。いつもはいくつもの出発予定で溢れている電光掲示板が、明日の朝まで合わせても10本程度とは…。信じられない光景でした。
私の搭乗時は、KLMで提出するオランダへの健康報告フォームはオンラインチェックイン時に組み込まれていたので、紙で提出する必要はありませんでした。日本で入国時に検査があることと2週間の自主隔離の必要があることをカウンターで確認され、荷物は重量をほぼ気にすることなく通りました。
このとき気づいたのは、乗務員たちがすごく落ち着いていて優しく、余裕があることでした。いつもならもっと厳しくチェックしたりするものですが、口調が柔らかく丁寧で、たまたま優しい人に当たったのかな…?と思いもしたのですが、この後実際搭乗してみると全く同じ様子で、笑顔で落ち着き払っているのです。客数の少なさと便数の少なさにより、ストレスがおそらく非常に減っているのだろうと思われました。
もう一つ気づいたのが、「観光客がいないとこんなにラクなのか…」ということでした。もちろん観光客が悪いと言ってるのではないんですが、ただなんか、不慣れな人ほどよく分からない場所でよくわからないゴネ方をしたりするもんなんですけど、そういうのが今回は一切なくてスッスッと皆乗っていくし、飛行機の中でも人の邪魔にならないように気をつけるポイントとかがだいたいお互い分かってるのでササッスッみたいな感じで済むし、めちゃくちゃ…楽で…。。ノイズが減ってる感じで。いつもこうだったらたとえ満席でもストレス少ないだろうなぁ。それが客数75%減で運行してるもんだから、行きは皆速攻で一人一列占拠して横になってて、もう楽チンオブザイヤー受賞でしたわぁ…。機内も3分に一回換気されてる上に換気フィルターでは花粉やウイルス類が99.99%カットできるんですって。いやすごくない?こんなことになるまで全然知らんかったわぁ…。

ご飯もおいしかったです…!もう全部あらかじめパックされてて、保存がきくせいかホットミールはパスタ、着陸前のホットスナックはホットチーズクロワッサンなど固定で、めっちゃ美味しかった。これでいい…これでいいよ…。。十分。。あと人数に余裕があるせいなのかコーヒーがちゃんとフィルターコーヒーで、うえーんうれしい…!!てなったよ…ありがとうKLM。

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あとこれは、いつもだと途中で腹減ったらおやつとか飲み物を後ろに取りに行くじゃないですか?それ来んなってことで、あらかじめおやつ一式セット+コーラが配られましてね…!これ画期的じゃない!?いやこれでいいよもう…いつもこれでいいよ…!!おいしかった😭オランダのワッフルクッキーめっちゃ美味しいですね…!

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2020年、どこにも旅行に行けず、外出すらままならず、本当に閉塞感がやばくて、このまま年末年始一人でモルちゃんと家にいたらさすがの私でも心が死亡する気がして、それが今回の渡航を決めた最大の理由ではありました。
久々に見た空の上の世界は、本当にきれいでした。

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日本の海が見えてきたとき、その美しさもさることながら、日本に…本当に…着いた…。という感慨深さの方が、強かったです。

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さて成田空港に到着すると、降りてほどなくして検査会場へと到着し、そこからはものすごい滑らかに流れ作業で唾液検査へと導かれます。出発国と経由国の確認をされ、もちろん対象に該当するのでパネルで仕切られたところへ一人ずつ通されてそこで唾液をていやーと出して提出し、またその先で書類や健康確認のメルアドやLINEなどを確認され、全部で30分ほどで済みました。待合室は椅子が一個とばしで番号が振られており、指定された席で時間を待ちます。
二時間ぐらいかかると聞いてたので当然かかるんだろなーと思ってのんびりしてたら、そこから30分もしないぐらいで呼ばれたので、早すぎない!?まさか逆に陽性だったとか…!?とか考えたのですが、普通に陰性でした。はい。列に並んでる時から唾液溜めといてすぐさま提出したから周りの人たちより早かったのかもしれませんね…。おすすめです…早めに溜めとく作戦…。…汚い話ですみません。。

無事に陰性ということで、荷物引き取り場所へ行く途中、エレベーターで一緒になったカップルが話しかけてくれて少し話したら、彼らはフランスからで、彼女はフランス人だったので結果間に合わないと困ると思って二箇所でPCR受けて到着してまた今受けたから3回受けた!つってて、お疲れ様です…!!と話しつつ、改めて、なんで日本人は事前検査結果いらんのだろね…?と謎になった…。だって、ビジネスとかで一時的に渡航して帰ってきたわけじゃなくて、普段あっちに住んでる日本人だよ?条件は外国人と同じだよな…?と…。まぁ、受けずに渡航できたので助かったんですけども、どういう根拠で決めてるのか分からないね…?と思ったのでした。

あまりにも予定より早く出れたので、父の迎えを待つ間、がらんとした成田でスタバのコーヒーを買い、半分以上封鎖されたベンチの空席に座って本を読んで過ごしました…。…空いてるのは好きなんで苦ではないんですけど、いやそれにしても、すごいなぁ…。お店もほぼ閉まってる感じ。
久々に到着した日本で、みんなの消毒対策とかはどうしてんだろねぇ…と観察したりしてました。
1時間半ほどで無事父と合流できました。帰る途中のPAで食べた唐揚げ定食が強烈に美味かったです…。トラックの運ちゃんとかが毎日でも飽きずに食べれる味とクオリティーなんで、トップオブトップなんじゃないかと…。すげえ美味かったな…盲点でした。普段高速とか乗らないから多分滅多に食べられませんが…。…うっお腹すいてきた…(セルフ飯テロ)
それにしても、父に車で迎えに来てもらうのなんて初めてだったので、あまりにも楽チンに家に到着して、びっくりしました。お車…最高すぎんか…。。普段、長女の癖なのか、なるべく親に頼りたくないのでどんなにしんどくても一人でトランク引いて電車で帰ってるんですけど、いやほんと、今回はコロナのおかげで、絶対普段経験しないことを経験させてもらっているなぁ…と感じました。ありがたや…ありがたや…。あと…自由業バンザイ…!時間の自由!!!

 

・到着後の日本生活

まず、健康報告…ですが、東京23区の私は「健康に注意して、朝晩熱計って、異常あったらすぐ知らせてくださいね」というメールが来て終わりでした。報告しなさいという連絡が一度も来ませんでした。…ゆるいな…?ただ渡航前に調べてた時にも都区内の人がその状態だったと読んだりしたので、対象人口が多い地区だとそうなってしまうのかもしれません。田舎の方の友人は、毎日保健所からメールが来て報告してたとのことでした。多分地域差…?

・天国みたいだった
ここ数年は年末年始に帰省してるのですが、こんなに故郷を「天国みたいだ…」と思ったことはありませんでした。
関東の冬は明るくて、毎日晴れていて、明るくて、暖かくて…。昼間だけですが…。。夜はね、今年は寒かったなぁ…毛布追加してやっと眠れるようになりました。家の中寒いのだけはやっぱり慣れないな。
でも、チェコは11月から毎日ほぼずっと曇りです。ずっとグレーの、暗い空。それに加えて今年はロックダウンで全てのお店が閉まり、生活に味気もなく、外食はできないのでせめて数件のお店でごくたまにテイクアウトをしてくるぐらい…。生活に文字通り、一切の彩りがないのです。ちょっと雑貨店を覗いたり、ちょっとコーヒーを飲んでいったりという、そういうものが全て奪われた世界。3〜5月のロックダウンも長く感じたものですが、10月中旬からのロックダウンは、グレーの空と相まって、さらに重苦しかったのです。
それが、東京に来たら、マスク着用と消毒ぐらいで、あとはみんな、好きなように暮らしてる。ほとんど通常通り。お店はみんな開いていて、気分転換のものを探しにも行けます。コーヒーだって、お店で買って外で飲んだって寒くない。気温が10℃あるのと、0℃とでは、同じ珈琲店が開いてたってこれだけ違うのです…。日本が低感染リスク国だということは、私にはほとんど奇跡に思えました。計算して日本人に生まれたわけではありません。対策だって、正直言ってほとんど同じようなことしか人間にはできません。マスクと手洗い、うがいぐらい。日本の方が気をつけてる人が多いというけれど、見えないとこには、気をつけてない人間だっているはずですよ。少なくとも、これほどまでに感染者数の差が開くほどのことを日本人がしているとは特に感じませんでした。そう考えると、おそらく遺伝子的な理由はやはりあるのでないかと個人的には思います。アジアでは昔から肺病系が多かったので、何かしらの抗体がついているという説ですね。もちろん、今はどの説も眉唾なのでしょうが…。両方の国を直接経験した私としては、今回の滞在ではそのように感じました。
とにかく、安全だと、感性が告げて、私はホッとしました。もちろん、二週間の自宅待機の後は、外出時も混んでる場所には決して長く滞在せず、店の中にいる時は座席間が十分開いてる店を選び、映画館はガラ空きの時間帯に入って飲食せずにいる、などきっちり守って滞在しました。とにかく、帰るまでは一瞬たりとも油断できないからです。条件が変わろうと変わらなかろうと、私が陽性になれば終わりですからね。。毎日、日本と欧米の両方の情報をチェックし続けていて、緊張感はありました。
それでも、低感染リスク国の祖国に三週間いられたことは、私の魂を救いました。一年分の緊張と疲労が、だんだんと軽くなり、頭が冴えて、今必要なものが見えてきて。具体的にいうと、ヨーロッパにいると当たり前のように西洋哲学の話になるので、そっちを強化したいと考えてたのを思い出し、免許の更新ついでに図書館のカードも作り直してごっそり本を借りてきて、家で読みまくれたので、そこを起点に2021年の計画を立て、ついでに本も大量に買い込んだりできました。魂が何に飢えていたのか、何を必要としていたのかを、二週間の自宅待機中に自覚することができたのは、今、一番必要なことだったように思えました。
家で両親と過ごせたことも、すごくよかったです。どうしてもこの状況では、毎日顔をあわせるパートナーにギスギスしてきます。でも、私がちょいっと帰ったことによって、二人とも嬉しそうでした。なんだかんだで、私も一番嬉しかったことは、それだと思います。うちは食卓にパーテーション立てて食べてるんですけど…(すごいですよね…母の案です笑)、それでも顔を突き合わせて一緒にご飯が食べられて、本当に楽しくて、嬉しかった。

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本はこんな感じ。
昔と読み方が変わったってことに、ここで気づきました。
西洋とアジアを交互に読んだり、フィクションとノンフィクションや、紹介モノと原典を交互に読んだりするのです。
一冊だけ読もうとすると飽きて投げ出すことが多くなってたので、そうかつまみ読みすれば楽しめて身になるんだなぁーと、今回で突然自覚して…。最近、本が読めない…と悩んでいたのですが、面白い本は完読してるから、結局そういうことか?とか言いながら探しました。。
実家に置いてきてた大事な本もいくつか加えて、プラハに持って帰りました。
本がある人生が突然戻ってきて、楽しくて仕方なくて…。私は本当に本が好きなんだと、また改めて、実感しました。

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クリスマスも、誕生日も、大晦日も、お正月も家族や友人と過ごせて、本当に幸せでした。
なかなか会えなかった友達にも、今回の状況だからこそ会えた人たちや連絡が取れた人たちが何人かいて、本当に嬉しかった…。
いつもと違うけれど、違うからこそ、のことがたくさんありました。厳しい状況下ではあったけれど、帰ってこれてよかった、と心から思いました。

そう………遠足は、帰るまでが遠足。

というわけで、チェコに帰る日…。最後まで緊張しました。結果的にはまったく無事に帰れましたが、往路の日とはいくつか変更点がありました。
というのは、帰国する1月4日の時点でイギリス等で出た変異株がかなり広がってきている時期だったからです。
それでもまだ安全国指定の日本人である私は、事前のPCR検査が不要でした。私は本当にラッキーだったと思います…。これが十日後だったらもう、分からなかったかもしれません。ものすごいギリギリのところを切り抜けたと思います。
なんで事前に受けたくないかって?
4万6500円だからですかね………………。

というわけで当日。
飛行機の欠航っぷり…。ご覧ください…

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えーん……!

そして空港ガラッガラっていうか…無人…状態。

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さすがに初めて見た…のと、今回もチェックイン時にもう、北ウィングで開いてるのはうちんとこだけみたいな状態で、近づいてったらあちらから添乗員さんたち総出で面倒見てくれる感じで名前と行き先言ったら手元の端末でチェックしてくれて、「なんちゃらロケーターは登録お済みですか?」と。…えーん初耳です…何ですか…つーたらすぐ教えてくれて、Public Health Passenger Locator Formに事前にウェブで申請すると。つまり「帰国後の滞在先や今の健康状態が問題ないことをチェコ保健省に申請登録するウェブフォーム」でした。成田チェックイン後にこのガラガラのロビーで改めて調べましたが、公式ページでは安全国リストに乗ってるうちらは登録すらしなくていいことになってた…ので、どうやら最新の情報だったようです…。いやー…助かった…というか…知らなかったガチで…。。

これでなんとか普通にチェックインができて、荷物も預けて、送ってくれた父母にバイバイと手を振ってからロビーで待ってる間、ねえ…ほんとにPCR検査結果いらんの?ねえ??と調べ尽くしたのですが、やっぱり書いてなくて…。そもそもそのなんちゃらロケーターもまだいらないことになってたからね…。ちょっと不安になってきたんですが、さすがにここまで無傷で入れて到着時にいきなり「おい検査結果は?」とは言われんでしょ…言われたとしても翌朝検査に行けとかでしょ…と理性では分かっていても、いやぁ…とりあえず家に着くまでは気が抜けないってことだな。と覚悟しました。

帰りの飛行機は、行きよりさらにガラガラで、本当に…空いてるなんてレベルではなかったです。
上の電光掲示板ですが、カウンターで「今日欠航多いですねぇ…」と聞いてみたら「昨日よりさらに減りましたね…」て言ってて、実際目の当たりにしたらまたちょっとショック受けた…というか、わたしのこの便が飛んでるの、奇跡なのではないか?とか、なんでKLMだけ無事に飛べるんだろう何か裏事情があるのかしら…?と思うレベルで、本当に、いや、これ奇跡なんだな、みたいに思えてきた。アムステルダム旅行に行ったときみんなめっちゃ優しかったなオランダ人…とか思いを馳せてしまった…。
離陸する時、優しくてやわらかい日本の冬の光を見て、初めて涙が出てしまいました。もうちょっといたかったな…と。正直言って何度も一時帰国してる中で、そう思ったのは初めてでした。優しくてあたたかくて、安全で。わたし的には本当に久しぶりにホッとできた時間だったのです。
ところが滑走時にでっかいフェニックス出て来ちゃったからねぇ…。涙も引っ込んだ。そうか。生まれ変わるんじゃ、仕方ないな。がんばろ…。家に帰れるということは、まだまだ頑張りなさいって言われてるってことなんだから。

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私にはそれにしか見えなかった。

あと、富士山も見えましたね…!

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うはぁ…。

乗り継ぎのアムステルダムも、パスポートと滞在許可証を見せたら一発パス。いや、分かってたんだけど、今は奇跡にしか思えない。他の国の人たちはほとんどみんな必要なのに、世界でたった7カ国だけなんですよ?パスしてるの…。すごくないですか?もう、私やっぱり前世で徳を積んだのでは…?て思ってしまうレベルだったよな…私は何もしてないのに…日本人というだけで…。。みたいな。
帰りは乗り継ぎ長かったのでカフェラテと読書で三時間ほど粘り、最後に夕飯となるバーガーキングをムシャァとやって飛行機に乗り。

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見てください、この…素敵なプロペラ…。いや、今まで乗った中で一番古くて小さい、年代物の飛行機だったと思う。座席も、こんな硬いことある?てぐらい硬くてめっちゃケツ痛かったよね…。でも時差で眠かったから爆睡したよね…。ちょっと不安だったのですが、離陸して分かった。機長さんがめちゃくちゃ運転がうめえ。めちゃくちゃ安定してた…。安心したら、このプロペラのアナログなかっこよさが染みてきて、思わず写真撮ったよね…。かっこよかったです…。着陸もハチャメチャに上手でびっくりしちゃったわ…。いや今回、本当に、ベテランで固めてるんじゃないか?というぐらい、精鋭しか飛行機乗ってないって気がしました。機長も搭乗員さんも。ものすごい快適でしたね…。やっぱこのご時世に飛ぶ飛行機つったらもう…そうなるのかな…。。このへんはまったく予想してなかったので、実際に乗ってみての意外だった点でした。

夜10時、無事にプラハに着陸。
プラハの空港は、シェンゲン圏外からが第一、シェンゲン圏内からの便は第二ターミナルと決まっていまして、シェンゲンの他の国でEUへの入国手続きは終わってるので通常はパスポートコントロールが存在してないんですけど、恐らくEU加盟以来初めて稼働したのでは?と思われる第二ターミナルのパスポートコントロールに人がいるのを見た時は、びびった…。ちょっと不安になった。でもやっぱり、パスポートと長期滞在許可証見せたら一発パスだった。おれの不安を…かえせ…。いや返さなくていい…。おかげで無事、ありがたく帰ってこれたので…!!いやー!よかったよー😭こわかったよー…!!なんとか帰ってきたぁ…。
ダンボール追加して持って来てたのでシータク探さねばだったのですが、利用客激減すぎていつもなら鈴なりで外に待ってるタクシーがなんか怪しげなの2台しかいなかったので、えーん…とタクシーアプリで呼び、なんか大雨降ってきた中を、なんとか無事に帰宅しました。
よかった。
とりあえず、とにかく……よかった!
無事に帰ってこれました…!!!
はぁ…感謝…世界に…感謝…。。。。
ありがとうございましたーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

 

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なんかこう、もちろん一時帰国はいつでもありがたいものなのですけど、本当に今回は毎日、毎瞬間のように「ありがたいなぁ…。」としみじみしていました。誰かに一人会えただけで、すごいことだなぁ…。と思い、家族分の食後のコーヒーを入れるだけで、嬉しいなぁ…。としみじみし。美味しいもんも…いっぱい食べたしな…。もう…一年分…食べたしな…。。いやー。。

でもやっぱり一番沁みたのは、家族に会えたこと。
2020年、まず日本で流行し出した時、本当に家族が心配だったし、親のそばにいずにここにいていいのだろうかとも、思いました。それからすぐヨーロッパでも、むしろヨーロッパの方が酷くなってしまい、ロックダウンにもなり、今まで感じたことのないような不安とぼんやり感がありました。今回の年末、帰りたかったけれど、そんなことが許されるのかも、私にそんな資格があるのかも分からなかった。でも、なんとか行って帰ってくることができて、大好きな家族の顔が見れて、三週間ちょっとだけど一緒に暮らせて…。こんなにも、「家族の顔を見るために帰省したい」と思ったのも、それができてホッとしたことも、初めてだったと思います。本当に、本当に、嬉しかった。
帰りもギリギリで…。本当にギリギリのライン渡ってきたなと、旅を終えた今でもヒヤヒヤするぐらいのレベルでしたが、無事に帰ることができました。もう、感謝しかないです。 

2021年もとにかく健康第一に、無事生きてることや暮らせてることをまず感謝しながら、今年も踏ん張って…いきましょう!
私も今できることを最大限頑張って実行していきたいと思います。

 

もるもバッチリ元気でした!!
今回のペットシッターさんに出会えなくても、渡航は不可能でした…。本当に全てに感謝です。

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わたしの中にまだ"宇宙"があったころ

 

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10年前、私の中の「宇宙」は最大限の膨張に達していた。
その頃の絵が、東京でやった直近で最後の個展の、ギャラリーの壁一面に貼られたキャンバスの油絵だった。2011年。

私の中の宇宙は、無形だった。形をとることを許さなかったと言ってもいい。ただ、わたし自身の中味は、もっとも幸せだった気がする。「宇宙」と共に自分が在ったからだ。

でも、現実世界に、わたしの居場所はずっと見当たらなかった。どこにも接続できなかった。残念だが、何かしらの形で「強制的に何かの枠にはめ込む」ことで、理解してもらうことを考えた方がよいとも思っていた。ちょうどその頃、「本」で表現することをやはり諦めたくない、どこかで学ぶことはできないかとも考えていて、プラハの美術大学に出会い、そのスタジオにだけ応募した。一発で通った。奨学金なども出たので、無事に来れた。そして私は、ペインターであることを一時期捨て去る決意をした。

大学院入学後は、もともと「絵描き」なので、正直いって本当にうまくいかないことの方が多かった。それでも、ペンで素朴に描いたものがとても良かったらしく、日本で言われたことのない言葉をかけられたり、評価をもらった。わたしにとって、イラストレーションが可能な領域がわたしの中にあることを発掘できたのは、UMPRUMのイラストレーションスタジオのおかげだ。そのおかげで、イラストレーションの仕事に対する可能性も見つけることができ、今年はイラストレーターとして最初の出版物もチェコで出た。
同時に、ペインターとしての自分も大学院卒業後の2016年頃から再出発しだして、今はなんとか「両方やれてる」と言うことができる。

だが

あの頃の「宇宙」とは、わたしはまだディスコネクトの最中なのだ。

この10年間、覚悟を決めてペインティングから離れた効果も、国を変えたことによる精神的・物理的効果もあり、わたしの「絵を描く」という能力には、以前に比べれば形を与えられたように思える。
しかし、ずっと気になっていることは、あの頃わたしの中にあったあの宇宙とは二度と繋がれないのか否か、ということである。とてもそのことが気がかりなのだ。
だけど、あの領域は、意識上の操作で繋がることができるようなものではない。
あの頃のノートや構図や詩の記録はあるが、ある種の暗号のようなもので、今のわたしが全てを再現することはできないし、「再現」なんてものは必要ない。必要だったのなら、あの頃に形になっているはずだからだ。つまり、あの頃の自分には表現できなかったのだ。それだけはよく分かっている。

「あの内宇宙」と再び繋がる唯一の方法はおそらく、私がこれから前に進み続け、描き続け、作り続けて自分の足で再びあの場所へとたどり着くこと、だけなのだと思う。

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この頃の「宇宙」は、莫大で、膨大で、文字通り「宇宙」だった。
大きすぎて、処理できなかった。
この世の形に当てはめるのがほとんど不可能だったので。
…ということが、今なら分かるんだけど、あの頃はそれを天然でやってたから、分からなかった。形になりそうでならないことが分からなかった。
でも、プラハに来てある絵本作家さんに私のその一面の油絵の小冊子を見せた時の言葉を、突然ふと、思い出した。

「こっちに来ちゃいけない。こっちに来たら、小さな世界に押し込められる。あなたのこの大きさを潰してはならない」

その人はとても真剣にそう言った。
でも、私はやりたかったから、そのまま大学院に行った。
で、今になると、その人がそう言ってくれた意味も、分かる気がする。本当に私の世界を瞬時に読み取って、こういう規模の表現がそのまま在ってほしいと思ってくれたんだと思う。
だけどあの頃の私には本当にこの世のどこにも居場所がなかった。あまりにも、なかった。それを続けても、幸せだと思うことがもう難しくなっていた。だから、今こうなったことは必然だし、私の心の奥底は真実を知っているから、「一旦この宇宙を離れるけれど、それはこの先必ずこれを表現できる力を手に入れるためだから」だと告げている。今も、それを知っている。

でも私はまだ、その旅の途中だ。私の行き先は、30歳まで、幸せだけどとても不毛に全身全霊で接続していた「あの宇宙」へ、生身のこの私として接続することで、それを形にしてこの世に誕生させるためである。

まだきっと、忍耐と研鑽と、忍耐と忍耐と…耐え忍ぶ日々が続く。

にじり寄っていくしかない。人生をかけて、この毎日の日々を懸けて、誰にも理解されないとしても、途中で死んだとしても。

これが私だから。

 

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…ていうのを最近ずっと感じてはいたんですけど、戸棚にしまい込んでた一冊の小冊子を見つけて、あ、これが宇宙に接続してた頃最後のやつだ…と思ったので、言葉にしてみた。

手書きの魔法と、命を持った本


出たんですよーーーーーーーーーーーーー本!!!!!!!!!!!!
出ました…………はい。
生まれて初めて、フルで、一冊まるごと頭から尾っぽの先まで全部に自分の絵が入った本です。
すごいです。ありがたいです。
チェコ語タイトルは『Kouzlo Psane Rukou』、日本語にするとしたら『手書きの魔法』…といった感じでしょうか。

この本のすごいところは、単独で読んでも高いクオリティを誇る本当に面白い物語と、西洋カリグラフィーの基礎となる動きから実際に綺麗な文字を書くまでに至るハンドライティングのトレーニングが全く違和感なく同居しているところで、それは「魔法陣や魔法の言葉は、常に杖で空間に、手で書かれきた。あれはカリグラフィーそのものだ」という作者のニコラの哲学が、そのままこの、魔法と不思議な冒険、世界を守る少女の戦いと楽しくてカラフルな道中、そして人間関係の苦さや大きな愛に至るまでのテーマに、全てが自然と溶け込み、組み込まれているからなのです。

私もニコラも、後で判明しましたが本のデザイナーまでも小さい頃、「子ども向けのコンテンツ」に満足できない子どもでした。
だから、この本を作る話を最初にもらった時から、私たちのコンセプトは「子供騙しが通用しない本であること」でした。そうでなければ、子供の頃の私たちがこの本を読めば、鼻で笑ったでしょうから。
私たち自身がそういう子供だったからこそ、「本物を」届けながら、「自分の手で字を書くことは、怖くない。うまく書くことが目的じゃない。あなたという存在が、あなたのままで書くことが最も大切なのだ」というテーマを、伝えているのです。
かくして、私たちはこのコンセプトを貫きつつ、編集部と素晴らしいデザイナーがこの本の示し方をとことんまで考えてくれて、今のこの本としてリリースされることになりました。




このキュートな子供が主人公のミラちゃんです。
内面が、すごく共感できます。
PCやスマホの普及により、手書きで文字を書くことが殆どなくなってしまったのは万国共通で、ミラもまた、手で文字を書くなんてとてもできない、絶対に無理だから誰かにこの任務を肩代わりしてもらおう、と思って旅を始めるのです。



これは彼女が「師匠」と思える人と出会ったときのシーンなのですが、それがなんと、日本の女性なのです。
あー。日本の皆さんにも読んでもらいたい…





これは冒頭部、世界の「創造性」を司る女性が、敵である「King of Sameness」に消されてしまうシーンなんですけど、子供向けの本に抽象画を要求されるとは誰が思ったでしょうか。
これは、当初はその予定じゃなかったのですが、ニコラの書き上げた物語と文章力があまりにも完成度が高かったため、編集部が「子供向けだけど、大人でも違和感なく手に取れる本にしよう」と決めたからなのです。
これのおかげで、表紙のデザインも一部変わって、堂々たるユニコーンが単独で表紙を飾ることとなりました。



こうした経緯もあり、絵自体は2019年の夏の丸四ヶ月、生命力を削り取って仕上げ、さらに追加で抽象画やイメージなどを大小含めて10枚以上追加で2020年2〜3月に追加して仕上げ、やっと5月に出版となったわけです。本来は2019年のクリスマス前に出版の予定だったものですが、これは時間をかける必要がある、と関係者全員で同意してのものでした。

チェコは書店に流通するのもそれほど早くないのと、コロナのこの状況もあってか、書店に並ぶスピードはぼちぼちでしたが、初めて書店で平積みにされている本を見たとき、そして明らかに周りの本より減っていたのを見たとき、誰かが……買っていった…………となんか…じーんとしました。

 




さて。
これは個人的な思いなのですが、私としては「自分の絵が印刷されて出版される」ということは、もちろん、人生における一つの、絶対に実現したい夢というか、目標の一つでした。もちろん、この後ももっといろんな形で行いたいわけですが、それはさておき、やっと、私のほんとうの夢が一つ、ここで実現したことになります。私が絵一本に絞ってから、実に20年目の出来事なのです。
絵を始めた時から、私の中にあるキーワードは、実は一つしかありません。
「生きている絵」です。
一枚の絵には、その生命の前後が全て含まれていて、そのうちの一つを切り取ったにすぎないこと、一枚のその絵の中に生命が存在することを感じてもらわなければ意味がない、という、感覚。です。
感覚としか言いようがなく、受け取り手次第でもある部分でもあって、なんとも言えないので、似たような感性の人がそう言った場合はそれが成功していると判別する以外ないものですが、ともかく、それなのです。

それともう一つ、少し特殊かもしれないと思った自分の感覚があって、それは「美術と印刷物には特に違いはない」という信念です。
言葉通りに取ると誤解されると思いますので、説明します。
もちろん、美術品としての原画、一点モノには、そこにしかないリアルがあり、それを見なければ伝わらない真実があります。これはいくら写真を見たって伝わってきません。実物を見に出かけなければなりません。
弱みは、通常は買い手がそれを買ったら、その体験は展示以外では所持者にしか伝わらないところです。
印刷物にとってのリアルとは、「印刷されたものが原画」であるため、例えば2000部刷られたら、単純計算で2000人の人が、全く同じクオリティの「原画」を手にすることができる、ということです。
私にとって、この二つの「原画」の状態は、その質、クオリティー、体験が、全く損なわれないものでなくてはならない、という信念があるのです。
信念というより、自分にとってはそれは事実でしかありません。妄想でも何でもなく、事実です。必ずしも現物として描画された、キャンバスや紙に油絵の具や墨で塗られた絵画である必要性というものは、この意味においては全く存在しないのです。なぜなら、印刷物の上でも、絵画は生きられる、と私は知っているからです。

そして、今回のこの本なのです。
今回、絵は全てデジタルペインティングで仕上げました。データで入稿し、デザイナーに色調補正の一切を任せました。
本が印刷・製本され、最初に編集部に届いたときの担当編集者のコメントがまず
「ものすごく美しい。表紙のユニコーンが、まるで生きているようだ」と。
それを聞いて、ふんふん、そうでしょうね、と思ってはいたんですが、実際に自分も献本をもらい、家についていざ本を出したとき、その仕上がりに驚きました。


ほんとうに神さまがいるみたい…
というのが、私の第一印象でした。

いやー、A4サイズの本ですから、もともと迫力は半端ないんですけども。
印刷されたことによって、さらに細部まで美しくて、粒子が迫ってきて、
この重みと質感と存在感は、いったい何だろう?と
自分で描いておいて何なんですけど、何だろう?て思ってたんです。ほんとに。
これはそれこそデータや写真をいくら眺めても、この実感は得られません。実物の本が手元に届いて、自分の手で持って初めて、この体験は与えられるものです。現に作者の私ですら、現物の本として印刷されて手元に来るまで、ここまでのライブ感はなかったからです。この点において、「原画」はやはり、生きられる。と実感しました。

部屋に毎日飾っておいたら、だんだん出版された実感が湧いてきたんですが、
この本の神聖さと親しみやすさの両立した感覚は一切薄れることがなくて。



紙が今回、コーティングされていない、生の紙に近いものなのです。中身も。
直接ストローク練習を書き込むことも想定してるので、そういうコンセプトにしたのですが、
ちょっとこすったら傷や汚れのつくこの繊細さも、
コーティングされてないからこそのきめ細かい毛羽立ちも、
私が実際にパステル画を描いてた時に愛用していた紙の質感と全く一緒で。
紙を決めたのはニコラなんですが、私の好みともピッタリだったのでもちろん賛成していたのですが、実際にこうして仕上がってみると、あまりにもぴったりで、驚きました。

コロナの影響で、日本ではEMSの発送ができず、チェコから日本には送れたのですがすごく時間がかかり、昨日、三週間以上かかってやっと実家の母のところに届きました。
母は私の絵をずっと見守ってくれていて、自分の心で受け止めるタイプの人なのですが、この母が開口一番、この本の表紙について「本に生命というか命というか、魂?を感じたのは、多分初めてだ。親バカかもしれないけど…」とコメントしたのです。
それで、あっそうか、この迫力とか質感って、命ってことなのか。と。

本に命なんて馬鹿げてると思う人は、思えばいいんですけど、自分や他の人が感じたことを率直に言うならば、この本の持つ生命を、私はどうやら、絵にできたみたいなんです。
もちろん、この絵が描けたのは、ニコラの作品が素晴らしかったからです。
この物語、登場人物、世界観、全てが私を揺り動かし、感動させたからです。
それにふさわしいもの、この本を体現するものを示せば、これを見た人やこれに惹かれる人はまったく自然にこの本を手に取れるから。
それがイラストレーターの私の仕事だから、そうしただけです。
でも、できたみたいです。

それからはっと、気づいたわけです。
20歳で、私が「自分の絵」が始まった、と感じた、その時からずっと目指してきた、こうでなければと思っていたことは「生命を持った絵」だ、ということだった、と。
私が達成した夢はすなわち、ただ「絵が印刷された本が出た」ではなく、自分が絶対にこうでなければ、譲れない、と思っていた「自分の仕事」が、できた。という意味だったのです。

ニコラとの出会いと、育んできた絆もありますが、友人と仕事をするというのは想像するより大変なものです。
しかし、本当に心から尊敬できる友達のことを、今回の仕事を通してさらに尊敬しました。
彼女は人としても、書き手としても、素直で愛にあふれ冷静で公平で、真実と本物の自分であることを妥協することなく追求し、誰もが読みやすい形に仕上げるという難しい仕事に成功しました。
彼女の生きる哲学に私の存在も共鳴して、これを生むことができたのです。
感謝しかありません。

最後に思うこと。
この本には、お役目があり、この本を読んだチェコの人を、もう既にこの本は救っているはずです。行き場のない、理解者の得られない、誰にもわかってもらえなかったことを、この本がわかってくれたという人が、既に出ているはず。そして、これからも出るはずです。
願わくば、この本が多くの方に届き、必要な人の心に、穏やかに力強く、届きますように。



追伸。
本の断面が虹色で、きれいです。わー。
ええもんできたぁ…。。






絵における自己表現の始まりと形成/自分の場合。

文字ばっかりのブログでーす。


小学生の頃、私は「絵が苦手」でした。
理由は、自分が絵が下手だと知っていたからです。
私の性格は幼少期から変わっておらず、常に自分の知る最高レベルのものと自分を比べる習慣があります。私は大人に比べて絵が下手だったので、絵が嫌いでした。少なくとも、自分が描きたいと願っている内容を自分が表現できていないことを知ってしまえば、嫌いになるのは容易でした。
特に学校の図画工作は大嫌いで、工作に至っては強いられていると感じていました。
でも、たぶん絵は好きだったのでしょう。自分が下手でさえなければ。
ただ、上手くなる方法もつかめないままでした。

私に絵の楽しさやコツをそっと教えてくれたのは、いつも母でした。
学校の先生に何かを習った記憶は一切なく、つまらないという記憶しかないので、わたしの絵の師匠は確実に、母なのです。
一番最初の記憶は、大嫌いな写生大会から帰ってきて、しぶしぶ公園の木に加筆しているときでした。
「こうしたら、もっとリアルに見えるよ」と、母はほんの少しだけ描き入れてくれたのですが、見違えるようにほんものの木に近づいたのを、今でも覚えています。そんなちょっとしたことでできるの!?という感じでした。
まだ、木を描くのが楽しいという感情はありませんでしたが、苦手意識がほんの一瞬だけ取り去られた最初の時でした。

その後、中二の修学旅行後に作ったポスターで図柄や構図が決まらずうんうん唸っていたら、母がひょいっと来て自分が持っている図案集を置いていき、構図についてささっとコメントして帰っていったんですが(母のすごいところは、決して押し付けないのです)、それでやりたいことがやりたい放題できる構図を見つけてしまい、うわぁ、楽しい!!!!となったのがその、中二なんです。
美術ってやりたい放題やるということなのか!自分がいいと思うものをやりたいようにやることなのか!!と気づいた私は、それ以降、「課題を無視してでも好きなものを作るとうまくいく」ことに気づいてしまい、大学入試時にはそれを天然でやらかして落ちるなどしましたが、まぁ無事に合格できたしいいでしょう…。
つまり、「自己表現」が目覚めたのは、確実に、この時なのです。

母はこの二つのみならず、どういうわけだか、私が絵に興味を示すと、それに関する書籍をぽつぽつと、いや、ぽつぽつというにはかなり熱心に、必要な本を買い与えてくれていました。当時私はバレエを週六日やってた状態で、誰も私が絵を描く人間になるとは予想してなかったわけですが、文化に関することには母は惜しみなく助力してくれていて、それは今に至るまで一貫しています。
あの時に買ってくれた色彩学の本を隅から隅まで読み続け、色というシステムや捉え方の基礎が出来上がったおかげでその後色のことで悩んだことは一度もないのですが、今思えばあそこで一生使える基礎を作ってしまったのだと思います。今でもそらで覚えている箇所がいくつもあります。もちろん実物の本が実家にまだありますね。
それから、実地的な描き方の本みたいなものもかなり買ってくれていました。パステル画の本や鉛筆画の本は、カラーと白黒の世界を別々に自分の中でそれぞれ確立するのにすごい影響を与えたのではないか、と今になって気づきました。
例えばパステル画の本は、後にソフトパステルに変えて自分の主戦力の一つになったのですが、この時使っていたハードパステルでの知識は全部の基礎になってたと思います。。母が持っていた48色セットのハードパステルを「借り」て(完全に実質私物化しましたが)(母のものは俺のもの状態で使い込むのが常でした)本のエクササイズを全て練習し、最後に自分の中にあった風景を突然、描きました。夕暮れの神殿の石造りの階段に座る巫女のような尼僧のような女性の姿でした。
これを見て、娘が絵描きになることを反対し続けていた頑固ジジイの母方のおじいちゃんが「さすが俺の孫だ」と言ったらしい、という一言は後に我が家で伝説になったものでした。じいちゃん、昔ながらの職人ジジイだったけど、ほんとは娘も孫も溺愛だったんだよな…。絵描きを志し、挫折し、富山に戻って看板屋になったじいちゃんは超絶お絵かきお上手マンで、その娘のわたしの母も絵も彫刻もデザインもという才女だったのですが、じいちゃんに「絵でなんか食っていけないぞ」とこんこんと諭され続けてその道は志さず、なぜかその娘の私にそういうのが発現したんですね。余談でした。

そんなわけで、わたしが絵が好きになったのは、「自己表現」という感覚が突然生まれたその瞬間からでした。
これまたなぜだかはっきり覚えてるんですが、私の自我は中二の夏休み明けに突然目覚めました。休み明け、見渡したクラスメイトたちがあまりにも何にも気づかず何も考えていないことに突然気づいてしまい、あれ?世界ってこんなだったか?と、足元がぐにゃりと歪んだような感じになったのです。その夏休みで身長も8cm伸びてるんですよね、男子か…。男子並みか…。そういうのもあって、いろんな意味で視界が完全に変わったのが、中二の夏休み。あんまり嬉しくはなかったですね。でも、あそこから今に至るまでの意識はひとつながりです。


そんなことをね、いま、絵本の制作をしながら突然思い出したんです。。
今回この制作はすごく不思議で、今佳境を迎えているんですが、どんどん、昔の自分が好きだったもの、今の自分を作った原点の記憶が蘇り、今に結びついてきてるんですよね。
具体的に言うと、音楽が特に大きいです。高校生の頃、ライブハウスに通い始めるきっかけになったバンドの音楽を突然思い出してYoutubeで漁って「あの曲が一番いいのにない!!実家戻ったら全CD読み込むぞーーー」てなったりとかしてます。
なんだろ、これまた中学生時代ぐらいからはっきりと、自分が何を求めるか、を軸に音楽を聴き始めて、中3ですでにインダストリアル自分で作ろうと志して高校入学祝い握りしめてシーケンサーつきシンセ買ったぐらいはっきりしてたんですけど(15歳が楽器屋行って、店員のにいちゃんにやりたい方向性聞かれてインダストリアルですって言ったら二度見されたんですが買いましたKORGちゃん懐かしい…)(ちなみに他のやりたいことが多すぎて手が回らず、バンドやってる友達に後に譲りました。20kgをかついで帰ったあの子…元気かな…)
余談が過ぎるんですが、そんなわけでなぜだか、そう。高校生の頃、とにかくずっとずっとずっと聞いてた一番好きだった音楽たち…に戻ってきています。いっぺんにじゃなくて、なんか、ちゃんと順番に来るんですよね。不思議ですね。
先月Soft Balletの偉大さを思い出して聴きまくり、こないだはHal From Apollo '69を聴きまくり(今も)。20歳前後にライブハウスめっちゃ通って聞いてた音楽もです。
生理的な、この世界という概念が形作られていった時期の、世界に対する基礎生理感覚があそこで発生してる感じというか。
森を描くときはSunkingの「糺の森」を聞く、とか。
なんかこう、テーマソングが自分の中にすごいあるんだな…て今になって強く感じています。
原点の音楽は自分の世界観にフィットしてて、それを担っていて、絵を描くとき、一番大事なのってそこなのかな、と。生理的にそういう風に感じたんじゃないかな…と。

イラストレーションは自分にとって、なんかちょっと不思議な立ち位置にあって。実のところ最近、というか今年、ちょっとアートの方の自分に行き詰まりを感じていたので、今しかできないことがイラストレーションだったところへちょうどこのプロジェクトが入ってきたので、今これに全力を出す!!てなって、やってるうちに、何かまたいろんな側面が見えてきて…。
ものすごくいい本になることは間違いないんですが、締め切り直前時期の今、大いなる謎が一つずつ解けてきてるというか、自分たちでも実際にそうなるまで分からなかったことを見つけていってるので、いやー、なんだろ。すごいね。
締切は怖いんですけどね。そりゃ十分にもう、恐怖ではあるんですが。
それ以上に、やれるだけやれる今が楽しいですね。
ありがてえなぁ。
日本でも出版されたらいいよね…て話はしてるんですが、いやはや、どうなりますか。
といったところです。


アナログとデジタルの現在の折衷


なんかどこにも書いとくとこないので、やむにやまれずここに覚え書き。

iPad Pro、これ語りだすと長くなるんですけど、私はMacを使い始めた頃から、もっと具体的に言えば初代iPadが出た時から、今のこのiPadProを待ってたんだと思う。というぐらいの使い心地。iPadには、本格的に絵が描けるはずなんだよ、ってずっと、思ってて。でもベクター線しか引けなくて。。ベクターでも結構落書きはしてましたけどね、本チャンは任せられないわけで…。
ところが、時代って、待ってればテクノロジー追いつくのな。すごいですよね。というわけで昨年末に、最新のではなく一世代前のですがiPadProを入手しまして、それまでも板タブや液タブでも制作はちょこちょこしていたんですけど、それは完全にお遊びとしてとか、実用できないかな…とめちゃくちゃ試行錯誤しつつも本格的にではなかった…のですが。
今回、ありがたいことに出版される絵本の仕事となり、いろいろ内容とか求められる技術を鑑みた結果、仕上げはデジタルで行うことになるな、と。
だったら最初からデジタルで描いてしまえ、と。

とはいえ、本がハンドライティングの本で、直接本に書き込んだりもするので、やっぱり現物の感覚は実際の大きさでしか感覚的につかめず、かといって原画をアナログで仕上げる根気はもうない!(爽)
ということで、まだ1枚目仕上がってるわけじゃないんだけど、かなりのとこまで来たので現時点での状況。

スケッチ、構図練り…原寸のスケッチブック
着彩用の本下書き…原寸の水彩紙に鉛筆
本番原稿…iPadPro12.9インチでプロクリエイト(ArtSetにしかないブラシを一部使いたい時はレイヤーごと無理やりえいやっとした)

です。
各種別デバイスやPCで資料写真を集めたり見たりしながら細部を詰めていって、塗りが進むごとに確認しつつ詰めてって…という作業を今やってるところ。
要素の多い本なので、元々の気質が一発書き体質の私にはしんどいはしんどいんですけど、これはすごく楽しくてですね…。うん。
とにかく、進めてまいります。

(いや本当、ガチの締切ってもの自体が恐らくこっちの大学院卒業以来なのでなんかいろいろと感覚忘れてて、いろいろと戸惑った…)

チェコの外国人警察事情・2018現在

先日、チェコの外国人警察はヤバい!みたいな話しかネットにない、と小耳に挟んだので、最近の外国人警察事情を書きます。

結論から言うと「全然そんなことないです。むしろどんどん改善してる。先進国よりよっぽど優しいと思う」。

私も外国人として滞在してますから、もちろんビザ(正確には長期滞在許可証なんですが、書くのが長くてめんどいので以下ビザ)の苦労はしています。でも、ビザあっての私たち外国人が滞在できるのですから、これはやるしかない。

・外国人警察事情も、最近は本当に改善されました。
今は事前に予約もできますし、予約も以前は電話オンリーチェコ語オンリーでしたが、今はオンラインリザベーション(https://frs.gov.cz)が誰にでも可能です。アカウント作ってオンラインで予約し、その時間に行って端末で自分の名前の番号札を出したら、あとは番号が呼ばれたら窓口に行くだけ。時間のロスが極限まで減りました。
窓口の人も、ずいぶん英語も話してくれるようになりました。学生専用の警察には日本びいきの方もいるようで、日本語で話しかけてくれたりとずいぶん親切なようです!もっと気楽に行って大丈夫です。

・そして私のような「特殊なケース」(ただの個人事業主滞在者なのですが、あまり数が多くないから…らしい)の場合、特別窓口という部門がちゃんとあります。私は英語でメールを送ったら、Letnaにあるその部署からものっすごい美しい英語でリザベーションお取りしますという返事が来て、そこに行ったら瞬殺で用事が済み、非常に速やかにビザが発給されました。いやもう、びっくりしました。。この体験があまりにも大変だったのでどこにも今まで書いてなかったんですが…、個人事業主の方はLetnaの警察に行けば一発だ、と覚えといてください。それでオールOK。本当に仕事のできる人たちがあそこには揃ってます、心配しなくていいです。ブリッジビザも速攻で出ます。楽勝です。安心。。私は最初の2年間、普通の区で割り振られた警察行ってたけど本当にうまくいかず最終的に「3日しか有効期間がないビザですが、出しますか」と言われるという。しかもあっちのミスで…。(上層部のミスは下層部では覆せないので窓口の人には何もできない)あの時は究極の選択迫られました。が、もうここではダメだ、とりあえず出してもらって別の警察で仕切り直そう。ととっさに決意し、3日でいいです、と出してもらって、それを持って英語で案内が来たLetnaの方に行ったら一発、でした。
足りない書類とか、何が必要とかもあっちが言ってくれるので、それに従ってればOKです。自信もって!


・あと「チェコは他の国よりマシ」とする根拠ですが、比べる先がちょっと悪いかもしれませんが、例えばフランスとかは、フランス語きちんと喋ってるのに「あらごめんなさい、発音が悪くて何て言ってるのか分からなかったわ…」みたいなこと普通に言われるそうです。……怖いですね。チェコなんて、がんばってチェコ語喋ったらめっちゃ親切にしてくれるもんね…。英語も若い人は簡単な会話ぐらいならわりとできるんで、数年前までのように、なんかもうにっちもさっちもいかなくて挙げ句の果てに怒られる、みたいなことは本当になくなりましたね…。
それと例えばアメリカなどは、1日でも許可証の有効期限を過ぎてしまったら、一歩アメリカを出たらもう二度と入国できないぐらいのブラックリストに即入ります。なので、アメリカ国内で国に帰れない人は本当にたくさんいるそうです。厳しすぎると思いますか?でも、全ての外国人にゆるゆるのルールを適用してたら、国が成り立つと思いますか?特にアメリカは外国人が多いですから、厳しいのも普通の措置なのだろうと思います。
それに比べれば、チェコは小さな国なのもあり、まだ優しくてゆるい部分があります。期限が過ぎたら普通には受け付けてはもらえないものの、嘆願書だとか、真面目にしてますから!みたいな手紙を出せば、過ぎたのが3〜4日であれば間に合うこともよくあるようです。もちろん、それ以上過ぎたらもう、ブラックリストになります。外国人なのですから、滞在申請ぐらいはきちんとしましょう。私たちは「居させてもらってる」立場です。きちんと申請に行くぐらい、当たり前なのですから。

・私は、ほとんどの場合は一人で行ってます。本当に分からないとき、ヤバいとき、複雑すぎてどうにもならなそうな時だけ友人に一緒に行ってチェコ語で聞いてもらってました。でも今は本当に改善されてます!単純に必要書類揃ってて出しに行くだけなら、かなり早く出るようになりましたよ。

・ただ、早くといっても1〜2ヶ月は普通です。3〜4ヶ月かかる場合もありますが、それを急かすことは不可能なので、ただ待つだけになります。滞在は合法ですのでご安心を(次項目参照)。
私のビジネスビザ申請も、書類を出してから半年以上音沙汰がなく、「プロセスを早めてください申請」の書類を送ってやっとさらに1ヶ月後に返事が来る、とか(そして「この書類が足りない」と言われるイタチごっこ)はザラでした。そういう場合は促進願い出してつっつきましょう。ブリッジビザを取りに行ったついでに「今わたしのビザの申請状況どうなってますか」って聞くのも良いです、促進がてらになります。

・滞在許可証申請中は、手元にIDカードがないからといっても、ご安心を。合法です。「今、申請中です」というデータ状態になっているので、あなたは合法的にEUに滞在しております。でもチェコ国外へ旅行に出る時には、ブリッジビザが必要になりますので、警察にメールを出したり予約を取ったりして「ブリッジビザ出してください」とお願いしましょう。すぐ出るよ。
ちなみにチェコ語ではPřeklenovací štítekと言います。Potřebuju překlenovací štítku, prosím.と言ったり書いたりしましょう。

以上です!頑張っていこ!!